昭和51年03月11日 朝の御理解



 御理解 第4節
 『此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。』

 まさかのおりには「金光様」を唱えたら助けて頂けれるところまでは、ひとつ信心をすすめていきたい。私は昨日お月次祭を終わらせて頂いてから、いつもあの久富さん足を揉んで頂くけど、昨日はちょっと早く切り上げて。それからその後にまた呼びに行ってもらおうかと思うくらいに足が痛むんです。それからあの丁度光昭が起きておりましたから、光昭に足を揉んでもらいながら、揉んでもらいもらい休んでおりました。
 ほんとにこの「五つの願い」が出されて、「五つの願い」を本気で願わせてもらっておる時には、あすこに二年間余りっていうのは、ほんとにカゼもひかなかった。所が最近になってもう二度目のカゼをひいたわけですけれども。それこそ矢張り信心の油断です。ちょっとした油断から「あゾーゴッとしたな」って思ったら、もういけません。でその寒いゾクゾクするからあの暖房をする。
 暖房をするから今度はのぼせたのでしょう。今朝ちょうど三時過ぎに、こちらへ出る為に洗面させて頂いておりましたら、もう鼻血が出る事出ること、丁度栄四郎と直子が来とりましたから、二人が一生懸命世話してくれたんですけど、どうしても止まらないんです。それからもうあの出仕の時間でしたけれども、ご無礼してから丁度こちらへ十分ぐらい控えに出てくるのぐらいまで。
 それから間もなくあおなかしになって、頭を下げて冷やしてもらって、それから鼻にもうとにかく鼻に栓をしてこうしておると、口の中へ逆流してくるんです。ドクドクこう分かるんです。「これはえらいひどい、あのあれだなぁ」と思うて、まあ一生懸命神様にお願いをして、まあ四時の御祈念に、神前を血で汚すようなことがあってはならない、と思うて、それこそまあ一生懸命お願いをさしてもらいました。
 こちらへもうあと十分こちらへ参りましたけれども、またこう口の中へ出てくるんです、少しだけここにおりますと。それからまた七・八分間でありましたけれどもあの、こうして頭を下げてそれから鼻に栓をしてから。もうとにか、もうあと七分八分でここで出らんなりませんからね、もう一生懸命神様におすがりをしました。おかげでそれっきりあの、おかげで鼻をかんでも血も出ませんし、まあおかげを頂いたんですけれども。まあ言うならばまさかのおりには、も言うならば。
 「金光大神、助けてくれと言えば、助けてやる」と仰る。確かにお粗末ができておる、ご無礼ができておる油断ができておる。そこに言うなら難儀の元がある。けれどもその難儀のおかげで神様のあらたかな事やら、難儀のおかげで、それこそ一段とまた、信心をすすめて行く事ができる。それをもうちっと言うならば深刻に言うとです、それこそ「せなで泣いてる、唐獅子牡丹」であります。
 矢張りその千尋の谷にでも突き落とされなければならない、と言う所に矢張り何もない、ただ神様が「かわいいから」というだけではない。ね、矢張りそこにはそれだけの元があってのことですけれども。その事によっていよいよ、神力を頂き神様を愈々分からしてもらい、信心もそこから一段と、それこそ「この幣を切り境に」徹美君じゃないけれども、信心がすすむ。
 人間生身の事でございますから、どこにお粗末やらご無礼やらあるか分からん。「金光大神の言うことにそむかぬように」と教えておられるのですけれども。私は二十、二十分余りあの、こう大流しにあって休ませて頂いた時に、必死におすがりをすると同時に、お詫びをさせて頂いておりましたら、ガラスの一合ビンに何本もこうお酒が入ってるんです。それがあの九勺ぐらいしか入ってないんです。
 それに誰かがあの私の枕元に水差しがありますがその水差しで、ツーっとあの一杯にして行くとこを頂きました。「ははあ結局、有り難き、勿体なきが欠けておったなぁ」と。例えばあの水をさすということ言われますね。ほんとに例えてまあ申しますと、迷わなければならない。ね、昨日でしたか一昨日でしたか、久富さんが久富繁雄さんが、善導寺の弟さんがおられます。弟が言よりましたち。もとここに参って来よりましたけれども、あの吉木から国武さん。
 その人が宗旨替えをしてから、何かお不動様を拝みよる。それでそのその人が来てから、「あなた方」兄さんの勇さんのこと。「私げに参んなさるなら、あげなとはすぐようなる」ちゅうて、まあ言うたとこういう。だからそれをまた繁雄さんが聞かれてからまあ、茶飲み話に話されます。そういう時にですんなら、例えばお互いが「ほんにあちらに参ったら、それですぐ良うなるなら、いっちょ参ってみようか」と言う様な心が、もし起きたとするならば水をさされたわけです。ね。
 「合楽でおかげ頂けんものが、他の仏様やら神様で助かるはずはない。もう合楽の先生のお取次ぎを頂いてから、こうなのだから」と言う位なひとつの確信が、いつももりもりとあると言う事がです、私は信心に油断をしていない時だと。「良か薬がですからどうですか」ともうその薬に、ちょっとこう迷うとする。いわゆる水をさされたんです。ね。それこそなんにも知らん人達が、言うならばどんなに水をさしても、ね。
 それこそあの「会うたその夜の二人が仲を見せてやりたい」と言う様な詩がありますよね。水をさす人にそれこそ、自分達が仲の良いその水をさされても、もうそれこそ寸分の隙もない。こんなに仲良ういっておる事を、そんな水をさす人達に見せてやりたい。そういうものが信心には要ります。ね。ちょっとではあっても、迷いが起こったらもうすでに、そのお神酒が一合ビンのつが八勺になったり、九勺になったりそれが半分になったりどもしとるならばもうそれこそ。
 そのお神酒は薄いお酒になってしまうでしょう。ね。私はあの「金光大神の言う事に背かぬように」と言う事はそう言う事だと思う。ね。どんな場合であってもどんな事があっても揺るがない、油断がない。私はそんな意味で、例えば足が特に昨日痛かったり、またはカゼをひいておったり。今朝からそしてもうほんとに何分前までは鼻血が出ておったのが、あの止まるおかげを頂いたのは頂いたんだけれども、もしあれが神前で神前を血で汚す様な事がご無礼が、出来たかも分からない様な事の中に。
 言うならまあ日頃の信心ですかね。まさかの時にはと、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けて下さる。言うならそういうおかげを頂いたわけであります。ね。どんな場合、いわゆるどんなに、例えば水をさされてもです、微動だもせんだけの確信と、それから「金光大神の言うことにそむかぬように」と言う事は絶えず、ね、お願いがある言うなら、私がひとつの願いを、真剣さが欠けたとも思われぬけれども。矢張りそこが生身ですね。「五つの願い」体の丈夫を願わせて頂くように。
 ならせて頂いてからこのかた、ね、カゼもひかなかったのが。最近引き続いてこうやってカゼを引く様な事になっておる。「やっぱ油断からである」と自分で反省するんです。ね。だから本当に真剣に願ったり、真剣にお詫びをしたり、真剣にお礼を申し上げておると言った様な状態が、いつも心の底にあらなければいけないと思う。ね。「神からも、氏子からも双方からの恩人、此方金光大神」と、天地金乃神様がそう言っておられます。ここで最近私が思わせて頂くことは、ね、「金光大神助けてくれば、助けてやる」。
 と仰るのは金光大神に約束をなさっておられる天地の親神様の働きが頂けるのであります。金光大神が血を止めたり、ね。楽にして下さると言う事は出来ない。お取次ぎをして下さるだけの事。ね。金光大神様はどこまでもお取次ぎをして下さる。神様に取次いで下さる、氏子に取次いで下さる。ね。この頃「生神金光大神様、天地金乃神様」と言うて、連唱しておったんですけれどもこの頃「生神金光大神様、生神金光大神様」を連唱する事にしております。そして心の中にはっきり生神金光大神様が頂けた時に、ね、
 改めて「あなたのおかげで、今日この様なおかげが受けられるようになった」と言う事をお礼を申し上げますね。そして天地の親神様にその後に、ね、金光大神のお取次ぎによって、いわゆるあなたの力あなたのおかげが受けられるようになったと言う事を、お礼申さして貰います。どこまでも金光大神は「神からも氏子からも双方からの恩人」であります。信心の、それぞれの矢張り段階があります。ね。ですから「まさかの折には、金光大神助けてくれ」と言えばと言う事でも、その信心のまあ例えば今日私が。
 もうあの鼻血がどうしても止まらないから、栄四郎が「御神米を持って来ましょうか」と言うわけ。ね。「御神米のこたいるまい、ちり紙のしょうの良かとがあるから、あれを持って来い」と言うて、まあわざわざ、御神米のがわ紙とば鼻に栓せんでもよいと私は思うんです。その代りそのちり紙そのものを、ほんとに神様がおかげを下さっておると言う事を、にお礼を申さしてもらいます。おかげでまあ今日こうして無事に朝の御祈念も務めさせて頂きました。ね。
 もうほんとに何分間の所で、それこそ御神前を血で汚したり怪我したりする様な事も有りかねない様な状態の中に、神様はおかげを下さった。金光大神の言う事に、ね。もう本当に背かぬ様にという、一生懸命の言わば信心をさして頂いておりましても、どこにかお粗末ご無礼が出来てきて。油断が出来て参りますのですから、ね。私共の様にまあ朝から晩まで御神前にこうして奉仕さしてもろうて、ね。もうそれこそ絶え間なしに「金光様」を心の中で唱えておるようであっても。
 そういうやっぱ御粗末ご無礼ができております。ね。だからんなら私の様な生き方というだけではなくても、それはあのそれぞれの信心ですけれども、まさかの時に「金光大神」が唱えられるだけの信心はひとつ頂いておきたいと思います。ね。まさかの時に「さあ医者だ」「さあ薬だ」が先に出る様な事ではいけません。「はああの人に頼んだのなら」と言った様なものが先に出るような事であってはならない。私は皆さんの場合、いつどんな場合でもです、ね。
 「生神金光大神様助けて下さい」と御取次ぎが頂けれる状態だけの、その程度の信心は、ひとつ本気で身に付けておきたいもんだと思います。ね。中々まさかの時に「金光大神」が出ません。「あ痛」が先に出る。「さあ、困ったなぁ」が先に出る。ね。ほんとにいろんな時に出る。「金光大神様」が一番に出るようなひとつおかげを頂くための精進が必要と言う事になりますですね。どうぞ。幼稚園には、ね、例えばあの分らん事を言うたりしたりしてもです、幼稚園としての寛大なあの扱い方がある。
 小学生には、小学生の、もう学校へ行くごっなったけん、そげなこつじゃでけん、と言う様な所もあるのじゃない。そこん所のね開きは、銘々でやっぱるのですから、ね、だから今日は皆さんの場合は、まっ幼稚園私は小学校。ですからまあまさかの時に、ね。せめてその有り難き勿体なきがずっと一合瓶にいっぱい詰まっとると言った様な事はできないにしましてもね、ね、どうかある時には金光様と出るくらいな所は、やっぱし幼稚園でも、もう身に付けておかなければでけんと思うですね。